Sunday, February 05, 2006

あらら

機嫌は大分良くなりました。軽い躁鬱かね、はっはっは。実際にささーと解決した問題が幾つかあったからなんだけど。レポートは終わってないけど。

ところでここ数日ニュースを賑わしている例の国際問題だけど、くっだらない。いや、問題自体が下らない訳じゃなくて(宗教に関する侮辱は、当人しか分からないものね)、その抗議方法が。何か、とても地位の高い僧侶みたいな人が、某国旗を踏みにじってたり、火を付けたり。



あ、そ。当事国の方も、そんな感想だと思うよ。だって、ねぇ、旗燃やされたって。確か、問題のマンガは、偶像崇拝に関するものだよね。その宗教の創始者の言っていたのは別に偶像だけではなく、象徴(シンボル)なんてものに意味を置くな、本質を見ろ、ってことでしょ。「旗」というものが、それと同じくシンボルであることに、なぜ気付かないんだろう。馬鹿にされた内容を、繰り返している。当然そんなことをしているのは世界数億人の信徒のうちのほんの数十人に過ぎないわけだけど、それがまた「象徴的」として世界に配信されるんだよね。あー皮肉。(←ここでちょっと議論をすり替えたけどまぁいいか。)

日本の隣国でも、しょっちゅう日の丸が燃やされてるみたいだけど、何か、ねぇ。(形式的に国旗を尊重することは当然のマナーとしても)そんなことで本当にショックを受ける人が、日本にいるか考えてからすればよいのに。

日本の右傾化が叫ばれて久しいけど、人々が隣国の旗を燃やしたりしないあたり(ミサイル打たれてもw)は、まだまだ日本人はその点に関しては分別があって良い良い、と思ったりして(別に、「それ以外の分別がない点」が思い浮かんだ訳じゃないけど、Politically Correctにしようと思っただけ)。隣国で、デモに参加したり(させられたり)してる人は、貧民層だ、って良く聞くから、日本はまだそうは言っても経済的に安定しているから誰も旗燃やさないのかなぁ。あーでも半島の人はそんなに貧しい訳じゃないから、何だろう。(なぜか「嫉妬」「劣等感」という単語が頭をかすめるけど何か意味がある訳じゃないですよ、ラブ社民党)。日本人は単に政治や歴史に無関心なだけかもしれないけど。

いつも通りちょっと話がそれるけど、「日本人は無関心」というのは、結構世界に広がっている見方何じゃないかと思う。そうは言っても昔は一揆がたくさん起こったり、社会運動だってあったのに。神道的・仏教的な「和」の尊重が、やっぱり影響しているんじゃないか、と思ったりして。 そうそう、海外に行くと、やはりそういう「日本人とは」みたいな話題が好まれる。この「自然」→「神道・神仏混淆」→「和」の説は、結構日本の色々な文化や傾向に(無理矢理)結びつけられるから、お役立ちですわい。

ちなみに、「和」の尊重は、なぁなぁになりがちだったり、法や正義の軽視につながるものかもしれないけど、そこは自分が日本の珍しく好きなとこだったりする。

(あ、「日本」や「日本人」の定義には踏み込みません。「国民気質」なんてのが全くもって科学的でないのも承知してます。例外も多いわけで。「長野県民は議論好き」とか「慶應生はおとなしい」とかそういうレベル。また、もしあるとしてもその「気質」が他に対して優位だとか特別だと言うわけでもないです。でもさ、長崎の一部では、キリスト教と神道が組み合わさった形で未だに「隠れキリシタン」が残ってる、何て聞くと、ほーらほーら、なんて思っちゃうのは仕方がない)

しかし、自分が滑稽なほどここまでPolitically Correct、言うなれば中道にこだわるのも、「和」、つまり衝突回避を重視しているからかもしれない。またそうなると、最近の右傾化(SAPI○)だとか言うのは、逆に神道的・日本的で無くなっている、って逆説的な皮肉になるのかも。「神風」の悲劇。

いやいやいやいや、神道や老荘思想に限らず、どこの「まともな」思想・宗教が「攻撃的であれ」「排他的であれ」何て謳っているだろう。そんなのはただの「生存本能」じゃないか(個人的には、それすらも怪しいと思うけど)。イスラムの「聖戦」だってもとは自分に対する概念らしいし。どこかの国の好きな「正義 justice」だって、元来「それを盾に他人に干渉する権利」を意味するものではない、はず。宗教や伝統、文化、思想の名目で「攻撃的」「排他的」を正当化するのは、単なる言い訳に過ぎない、なんてちょっと堅くたまには終わってみようか。へへ。