Wednesday, September 29, 2010

google map カタカナ改悪(ようやく)撤回

あ、google mapにカタカナ表記切替機能がやっと付いた!!
google mapの強制カタカナ表記は、google様にしては珍しいトンデモ仕様で、本当迷惑していたんだけど、ようやく直って一安心。恐らく大々的にリリースした(「カタカナで世界地図が見られます!」って・・・)したから、安易に中止できなかったんだろうけど⇒
http://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/20090828_311462.html

googleフォーラムでは非難轟々だったのに、結局修正に1年かかったんだね。時間かかりすぎ。
http://www.google.com/support/forum/p/maps/thread?tid=739038be054fdb41&hl=ja

でもこれで安心して使える:-)

Tuesday, September 28, 2010

スタバ持ち上げ

以前ここで、スタバのVIA(インスタントコーヒー)がまずい、という話を書いて、その意見は変わらないんだけど、別の話を。

スタバのインスタントはまずかったけど、ドリップペーパーコーヒーは、かなり美味しいと思う。スタバ店内のドリップコーヒー(結構独特の味だよね、濃くて←いつも水で割って飲む・・・)と、ほぼ同じ味と香り。ORIGAMIという製品名も良い。値段は1杯分100円、ってそれVIAと一緒じゃん、と思えばとても安い。

でも、普通のドリップコーヒーなら一杯30円とかだし、そもそもスタバのコーヒーが美味しいのかといわれたらそれも微妙。ただなんとなく職場で贅沢な気分にはなる(貧乏人だ・・・)から、当面は買うだろうな。

Sunday, September 26, 2010

海外ニュースとか

たまーに何となくlivedoorのトップページを見るんだけど、そこのトップニュースに愕然(以前開いた時の残りか、勝手に「海外」のタブが開かれた模様)。何これ・・・?




livedoorが韓国企業に買収されたって読んだけど、それと関係あるのだろうか。いや、中韓の悪い話ばかりにも見える。そういうことより、日本のある層にとっては「海外」は中韓だけであり、そこにあるのは「好き嫌い、卑下、妬み嫉み」だけなんじゃないか、というのが気になる。

ちなみに、asahi.com って、前は国際ニュースも一まとめでトップページに出てたのに、今は「ニュース一覧」の「海外」タブをクリックしないと出てこないのね。なんだそりゃ。

ムラカミハルキとロスト

今月のクーリエジャポンを読んでいたら村上春樹のインタビューが出てた。村上春樹の本とは、文章は上手いと思うけど相性が良くなくて、「海辺のカフカ」とエッセーを数冊読んでみて辞めてしまった。

インタビューで「Lostが好きではまった」ということが書いてあって、さもありなんと思った。あの、謎の後ろに秘密があると思わせておいて、実はただのオカルト(? SFというかファンタジーというか太古だか裏世界のエネルギーだか)なところ、そっくりじゃないか。どちらもドキドキしながら観はじめて(読み始めて)、最後には顎がっくりなところとか。

多分、シャマラン監督作品(サインとか、ハプニングとか、アンブレイカブルとか)も好きなんじゃないかと邪推。

あ、いや、別に単に趣味と相性の問題です。いいとか悪いとかじゃなくて。

Monday, September 13, 2010

If I die young

久しぶりの曲紹介。

"If I die Young" by the Band Perry



冒頭の歌詞が頭から離れない。

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If I die young bury me in satin,
lay me down on a bed of roses.
Sink me in the river at dawn.
Send me away with the words of a love song.
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頭に浮かぶのはやはりミレイのオフィーリア。サテンに包まって無いから本当は違うけど(っていうかまだ生きてるし・・・)。

Monday, September 06, 2010

萩原朔太郎 「海」

ある資格の勉強をしていたらこの詩に遭遇した(「空所補充」で 笑)。勉強中なのに感動してしまった。

海賛歌ってすごいよね巷で。でも、自分は大学で4年間スキューバダイビングをしていたけど、なんとなく海を好きになれないもやもやした気持ちがあって、それがとても端的に表現されているなあと思う。いや、ダイビングも、きれいな海の場所への旅行も好きなんだけどさ…。「物憂き悲哀」、そうそうそれそれ。

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 海を越えて、人人は向うに「ある」ことを信じてゐる。島が、陸が、新世界が。しかしながら海は、一の広茫とした眺めにすぎない。無限に、つかみどころがなく、単調で飽きつぽい景色を見る。
 海の印象から、人人は早い疲労を感じてしまふ。浪が引き、また寄せてくる反復から、人生の退屈な日課を思ひ出す。そして日向の砂丘に寝ころびながら、海を見ている心の隅に、ある空漠たる、不満の苛だたしさを感じてくる。
 海は、人生の疲労を反映する。希望や、空想や、旅情や、浪を越えて行くのではなく、空間の無限における地平線の切断から、限りなく単調になり、想像の棲むべき山影を消してしまふ。海には空想のひだがなく、見渡す限り、平板で、白昼の太陽が及ぶ限り、その「現実」を照らしてゐる。海を見る心は空漠として味気がない。しかしながら物憂き悲哀が、ふだんの浪音のやうに迫つてくる。
 海を越えて、人人は向うにあることを信じてゐる。島が、陸が、新世界が。けれども、ああ! もし海に来て見れば、海は我我の疲労を反映する。過去の長き、厭はしき、無意味な生活の旅の疲れが、一時に漠然と現はれてくる。人人はげつそりとし、ものうくなり、空虚なさびしい心を感じて、磯草の枯れる砂山の上にくづれてしまふ。
 人人は熱情から――恋や、旅情や、ローマンスから――しばしば海へあこがれてくる。いかにひろびろとした、自由な明るい印象が、人人の眼をひろくすることぞ! しかしながらただ一瞬、そして夕方の疲労から、にはかに老衰してかへつて行く。海の巨大な平面が、かく人の観念を正誤する。
(『日本诗人』1926 年6月号)