Monday, September 06, 2010

萩原朔太郎 「海」

ある資格の勉強をしていたらこの詩に遭遇した(「空所補充」で 笑)。勉強中なのに感動してしまった。

海賛歌ってすごいよね巷で。でも、自分は大学で4年間スキューバダイビングをしていたけど、なんとなく海を好きになれないもやもやした気持ちがあって、それがとても端的に表現されているなあと思う。いや、ダイビングも、きれいな海の場所への旅行も好きなんだけどさ…。「物憂き悲哀」、そうそうそれそれ。

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 海を越えて、人人は向うに「ある」ことを信じてゐる。島が、陸が、新世界が。しかしながら海は、一の広茫とした眺めにすぎない。無限に、つかみどころがなく、単調で飽きつぽい景色を見る。
 海の印象から、人人は早い疲労を感じてしまふ。浪が引き、また寄せてくる反復から、人生の退屈な日課を思ひ出す。そして日向の砂丘に寝ころびながら、海を見ている心の隅に、ある空漠たる、不満の苛だたしさを感じてくる。
 海は、人生の疲労を反映する。希望や、空想や、旅情や、浪を越えて行くのではなく、空間の無限における地平線の切断から、限りなく単調になり、想像の棲むべき山影を消してしまふ。海には空想のひだがなく、見渡す限り、平板で、白昼の太陽が及ぶ限り、その「現実」を照らしてゐる。海を見る心は空漠として味気がない。しかしながら物憂き悲哀が、ふだんの浪音のやうに迫つてくる。
 海を越えて、人人は向うにあることを信じてゐる。島が、陸が、新世界が。けれども、ああ! もし海に来て見れば、海は我我の疲労を反映する。過去の長き、厭はしき、無意味な生活の旅の疲れが、一時に漠然と現はれてくる。人人はげつそりとし、ものうくなり、空虚なさびしい心を感じて、磯草の枯れる砂山の上にくづれてしまふ。
 人人は熱情から――恋や、旅情や、ローマンスから――しばしば海へあこがれてくる。いかにひろびろとした、自由な明るい印象が、人人の眼をひろくすることぞ! しかしながらただ一瞬、そして夕方の疲労から、にはかに老衰してかへつて行く。海の巨大な平面が、かく人の観念を正誤する。
(『日本诗人』1926 年6月号)