Friday, November 17, 2006

taro the racist

さっき読んでいた本(寿里順平『スペイン語とつきあう本』)に「ある国に滞在した人は、なるべく現地の学校に入り、現地の生徒と学校生活を共にしてもらわないと意味がなくなります。 」という記述があって、ふと自分のことを考えさせられた。

シンガポールでは5年間ずっと日本人学校に通った。
そのことは当然だったと思うし、あえて言えば「国際校に通えば良かったかな」ってぐらい。 今振り返ると、「現地校」というものは、非明示的に、つまり無意識に、外国人学校より「格が低い」と信じていたんだな、と思う。

もちろん、現地校に行くと言うことは卒業資格何かの関係で、日本で進学することが難しくなるということで、それは5年後に確実に長野の高校に進学する予定だった自分には考えられないことだった。でも考えてみると、実はそれは逆だったのかも知れない。つまり、現地校に行くはずはないから、日本で進学する、と。どうせ最終的には「国際的な」仕事(笑)をしたいと思っていたんだから、どこの国で進学しても良かったはずだものな。むしろ日本人として、外国の学校を出ていた方が、言語面や情緒面なんかで良かったのではと思うことの方が多い。

そして、告白すると、シンガポールに住んでいたときに、シンガポールローカルの友人は一人もいなかった。まぁ、居住空間(外国人向け環境)も学校も違ったんだからそれは仕方ないと思うけど、努力次第でどうにでもなっただろうに、と今後悔する。そしてそこに、人種差別的な考えがなかったというと残念ながら嘘になる。仲の良い友人は知っているだろうけど、時に自分はとてもRacistだ。「そんなはずはない」という理解を見越して冗談にしているけれど、本当は冗談なんかじゃない、かもしれない。現地校に行かなかったことや、現地の友人を作らなかった(作れなかった)遠因が、自分がRacistだから、というのは悲しいかな、否定出来ない。 そして、それは、「差別」を嫌悪していて、大学でも30%位は差別や偏見についての勉強をしていた自分にとって信じがたいし、自分の一番見たくない部分である(つまるところ「自分に甘く他人に厳しい」ということかもしれない)。

ただ、自己弁護するならばそのRacisticな感情は、あくまで「感情」であって、合理的・論理的な「考え」ではない。怒りや悲しみ、喜びといった「感情」は非合理的である、てどこかで読んだけど、何かを卑下するというのもそうだろう。今話題のいじめ問題でたまに聞く、「いじめられる方にも理由がある」という発言も、根底で同じ気がする。つまり、他人をいじめたり差別したりすることに「論理的」な理由なんて本当はあるはずがないのに、「自分の心がそう言うから」OKだ、というのは、実は非常に幼稚で馬鹿らしい(さらに言うなら、「民度が低い」つまり「原始的」)、ということ。ちなみに自分は、昔は結構ないじめる側で、「理由のある」いじめをしていたつもりだった。今考えると本当恥ずかしいけど、そういう「感情」を盲目的に信用してたんだな。しかし、そういう感情が生じない人も当然いるわけで、それが生まれつきなのか環境なのか教育なのかは分からないけれど。そこまで聖人でない自分ができることは、感情のManagementだろうか。まずは、冗談でも言わないようにするか。「シンガポールの植民地的な雰囲気が好き」とかもう言いません。

(ということで現地校に行けば良かったとは思うけど、もちろん日本人学校や高校、大学で学んだことや得た友人は代え難いし、恵まれていたと思ってます、ハイ)
(ちなみに、何故か今になってシンガポールローカルの友人が何人か出来ました)
(でもやっぱり「私は差別も偏見も絶対しません」って人はちょっと怖いなと思ったり)