Monday, August 31, 2020

トントントン

数年前から話題の「トーン・ポリシング」(話し方の取り締まり:)、ぼんやりと違和感を感じていたから考えを整理。

確かに、マイノリティや被抑圧者の発言や告発に対して、強者や抑圧者側が「そんな感情的な話し方/態度では冷静な議論にならない。」と論点をずらしたり矮小化することがあっただろうから、これが問題として認識されることは重要で意義があることだと思う。

でも、それは問題提起や議論において「怒り・悲しみ・痛み」などの「感情」に意味のある場面や、強者/抑圧者が「論点ずらしや矮小化」をしようとしている場合のみに問題なのであって、それ以外の議論において、やっぱり感情的になることは非生産的な場面って多くない?と思うんだけど。そういう「不適当(TPOに合わない)な言動に対する批判」に対してさえ、一律に「トーン・ポリシングだ!」と非難することが、最近目につくような。

具体的な例が、ちょっと古いけど、この勝間和代氏の「上野千鶴子氏の祝辞に対する批判の批判」。
https://katsumakazuyo.hatenablog.com/entry/2019/04/22/110641
上野氏は、研究内容はフェミニズムだけど社会権威的には超強者であって、トーン・ポリシングは成り立たないんじゃないかなあ。(実際の上野氏の祝辞は、個人的には内容もTPOも問題ないと思ってます。)。そもそも勝間氏って、「極端なほど細部までの論理性・合理性へのこだわり」が売りの人だと思う(し、自分もそこが好きだ)から、余計に違和感。

トーン・ポリシングを意識することは大事だけど、本当にそれが「強者による議論のすり替え・矮小化」なのか、それとも「議論の生産性を阻害する要因の排除」(個人的にはこれはOKだと思う)なのかを見極めないと、トーン・ポリシングという、本来は重要な概念の価値自体が損なわれちゃうんじゃないのかな。(これも、なんだかんだ「無意識の差別だ!」とか言われそうだけど、それならそうでそうなんだろう)