Friday, April 06, 2018

好きなことは好き

小説は好きじゃないけどエッセイは好きな作家っていう話、なんだか前にも書いたような気もするけど、いずれにしても角田光代と浅田次郎。何が共通点かというと、多作で、定期的に旅に関する短いエッセイを書いていて、関東出身。そこから何が導かれるかというのは、あまりに個人的な話。

Tuesday, March 20, 2018

今更お酒

お酒って、集中して飲んでいると割と早い段階で、あっ、もうなんかもう色々どうでもいい、と思える瞬間があって、そうするともうズルズルになる。お酒は味わって、とか、おいしいから飲む、とか普段は言ってるけど、そうは言っても上の呆然感は捨て置けなくてこっそり好きだから、アル中に気をつけないといけない。

Wednesday, March 07, 2018

悲しい

喜びがプラスで、悲しみがマイナス、ではないのだよね。悲しい人にそんなことは言えないけど、自分が今悲しいからこそ、幸せを感じることもある。幸せも、プラスとは限らないけど。悲しくて嬉しい。

Tuesday, March 06, 2018

うむむ

自分でもここまで落ちるか、というくらい疲れて落ち込んでなんのやる気もなくなってしまった。運動もお酒もお風呂もテレビも読書も音楽もピザポテトも効かないみたいだから、もう取りあえず片付けして寝るしか思いつかない。

Saturday, March 03, 2018

試験を受ける、と、試験に受かる、の受って動詞、文脈上では近いものがあるけど、よく見たら全然違う意味だな。なんでこうなった。

Monday, February 12, 2018

フィリピン人

主にアラブ人、欧米人、フィリピン人混成のバスケサークルに入れてもらってるんだけど、アラブ人は何かにつけいつも言い争ってて、自分も頑固なのでたまに論争するんだけど、フィリピン人(結構多数)って全然それがない。変な判定あっても、ファールされても、何も言わずさらっと流しててかっこいいなー、と思ってたけど、考えてみたら、長い植民地や弾圧の歴史とか、多民族社会とかが背景にあるのかな、必ずしもポジティブではないものが。
あるアラブ人仲間が、タイマー残り2秒を(なぜか)0秒とコールしたのが許せなくてプリプリしてる自分としては見習いたいが。

Friday, February 09, 2018

肋骨が災難

バスケしてて、また肋骨にヒビ入った…。この一年間で3回目ですよ。毎回、相手の肘を入れられて。

毎回同じところ(左上)だから、そもそもそこが弱いのか、それとも自分の動きが、そこが相手の肘に入るような感じなのだろうか。

いずれにしても痛い…。

Wednesday, February 07, 2018

国際関係

高校生の自分に教えたい、大学の国際関係学というのは、あくまでinternational relations、国家間の関係、のことであって、matters related to international issuesではないということに。

Tuesday, February 06, 2018

アル

金土日と飲みに飲んだ後の月火と、非常に体調が悪い。すごく疲れるし、午後になると頭痛と吐き気。

最初は、飲みすぎた二日酔いみたいなものだと思ったけど、よほど肝臓に負担を与えてしまったか、もしかして、アル中になってしまってこの二日間飲んでいない禁断症状だろうか…。

バファリン補充!

いつも大量、多種類の薬とか便利グッズをカバンに入れて持ち歩いているけど、今日はたまたま頭が痛かった時に、その袋の中によりによって頭痛薬がなくて泣きそうだった、っていうか、まあ、頭痛薬がないくらいで泣きそうに弱っている自分がやばくて泣きそうだった。

Sunday, February 04, 2018

たまに理解できない

自宅設宴も、人の家での飲み会も大好きな自分としては、最近日本で増えているらしい、「素人の他人が作った料理を食べられない」人(有吉とか)がまじで信じられないし、かわいそうだなと思う。

例えばエチオピアとかだと、むしろ外食するより知り合いの家のご飯の方が衛生面でも安心だったりする(自分も、設宴する時は味より何より衛生を気をつけます、殺菌消毒、煮沸に冷凍冷蔵、アルコール!)。家で飲み会なんて日本でもよくあると思うんだけど、そういう人ってどうしてるんだろう。

トマト

トマトを料理するとき、皮をむくだけで「丁寧な暮らし」をしている気分になる。お湯沸かすとか面倒だし。

普段、トマトでソースを作るときとかカレーに溶かし入れるときは、おろし器でそのまますりおろすと、簡単だし皮むき不要だから便利。全然丁寧じゃない。

のんでーのんでーのんでー

AU総会が終わったせいか、当地の皆さんは打ち上げモード。金曜から日曜で飲み会が5回あった(そのうち一回は自分で主催)。飲みすぎて常に頭と身体がぼーっとしてます。
明日からしゃかいふっきできるかしら。

Saturday, January 06, 2018

究極

よく、一生一つだけ食べられるなら牛鳥豚のどれかという話はあるけど、同じコンテキストで、ビール、日本酒、ワインだったら、よっぽど迷うなあ。日本酒と見せかけて、ビールかな。

Monday, January 01, 2018

年明けですが

とてもdecentで素晴らしいけど、良い意味で普通の人と付き合い始めたと思ったけど、普通の人、なんていないんだなあ。

Thursday, December 21, 2017

まったくもう!

家に帰って、野菜中心のご飯を食べ、BCAA飲みながら筋トレして、プロテインとサプリメント飲んで、ゆっくりお風呂に入ると、まじで健康気分で、お酒とかスナックなんて全然いらないなと思う。しかし、ちょっと寝るのには早いから、マツコのテレビでも適当に見るかと思って、まあ仕方なく合わせてビールとピザポテト食べ始めたら、まあもう幸せすぎてもう一本、っていうか健康とか筋肉なんてどうでもいいしビール飲んでれば幸せなんだよっ!!ってなって、我ながら気の変わりようにあきれる。

Sunday, December 17, 2017

仕事とか恋愛とか

運命の何かがそんなにそこら辺に転がっているのかは分からないけれど、自分の経験に限っていえば、何かを待って与えられるよりも、動いて取りに行ったものの方が結果としては良いことが多いので、ここは動くところなんだな。

Monday, November 27, 2017

レセの結果

仕事の一つ一つは概ね嫌いではないし、何かを工夫して成果物のクオリティを上げること、特に見た目とか五感に関わる部分を少しの手間で大幅に改善すること、ヒトの助けになること、仕事の結果として誰かを喜ばせたり感謝されることは得意だと思うし、好きだと思っていた。

でも、仕事の成果を褒めないで、どんな小さなアラを探してでもそれを拡大再生産して批判ばかりする上司についてしまうと、特に今の自分の仕事の成果が全てその人の成果になる構造で、あまりにも全ての成果や工夫や努力がけなされて、良いところは無視されて、もうこの人のための仕事なんて1ミリもしたくなくなる。

今の職場の難しいのは、その上司のための仕事をしたなるということはイコール、全ての仕事がしたくなくなるということ。

待遇は悪くない、むしろ業務量に対しては過剰とも言える(不健康地たからだけど…)。上にも書いたとおり、一つ一つの仕事は普通にできる。でも、体が、心が、もう無理だと言っています。

Tuesday, November 21, 2017

In pursuit of ...?

1 そもそも、日本語で「生まれた」、英語でも「I was born 」がまるで能動態かのように扱われてるけどよく見ると受動態なことからもわかるとおり、人は誰一人として自発的にこの世に現れたわけではない。これが前提条件。

2 自分の意思とは関わりなく産み出されたこの世界で、じゃあ何をしていくのか、というのは、みんな気づいているけど大きな声では言わない大問題。だって、勝手に放り込まれたんだから、そもそも「何をすべきか」というのはないでしょう。

3 それでも、勝手に死ぬわけにもいかず(そこには誠に非条理なことに、痛みや苦しみが伴うから、強い意志を持たない限りはたどり着けないのだ)、なんらかの行動指針が必要となる。

4 しかし、驚くほどに、ふつうに生きて育つ限り、その指針が教育機関や家庭で与えられることはない。そのことに気がつくのが、多分14歳とか17歳で、大人になってから揶揄される時代なんだろう。それを過ぎると、なんとなく(またはなんらかの方法で強い意志を持って)生き方が決まっていくか、決まらずに意志のない「死なない」生き方をすることになる。それはそれで論理的整合性はあると思う。

5 35にして、なぜかまたそんな事が頭に渦巻くようになってきた。何のために生きてるんだっけ?

6 この質問には、概ね二つの回答があって、一つは「生物としてのヒトの繁栄に寄与するため」、もう一つが「幸せになるため」ではないか。

7 もちろん、他人を幸せにするとか、苦痛のない人生を歩むとか、人に迷惑をかけないとか、笑わせるとか、地球を守るとか、国を守るとかのバリエーションはあるけど、概ね上の二つに集約されるでしょう。

8 そこで、上の二つで迷うわけだけど、そもそもこの二つの関係はなんなのか。前者では、例えば同性愛者とか、子供を産めない人はヒトとしての価値が著しく下がると思いきや、他人の繁殖を助けたり(お手伝いとか医療とか)、地球や資源のの持続維持性を高める事で十分な寄与が可能。

9 後者は、究極的には個人主義であり、快楽主義。でも、今の世界では、人は産まれながら幸福追求権があることになっていて、実際に大多数が幸せを追い求めているように見える。自分も、カッコつけて幸せなんて意味ないと言ったりしつつ、実際には気持ちいい事を追い求めている。自分の家族や友達には、幸せになってほしい。でも、それって生きる(生きさせられる)意味だろうか。

10 もちろん、世の中には他人を助けたり地球に良いことをすると幸福を感じる人はいて、割と多くの人が多少なりともそれは共有しているみたい。これは余談。

11 つまり、人間の生存本能は、ヒト類の繁殖に基づくのか、それとも幸福追求に基づくのか、よくわからないなということ。

12 フワッと書いたけれど、そろそろ人口的に地球がヤバイ現状を踏まえ、これは、もう少し人間に考えさせて、何らかの結論に至った方が、種として、もしくは個人として(この二分割はmutually exclusiveだと思う)、criticalなのではないでしょうか。

13 もちろん、そんな大袈裟な規模でなく、そもそも明日、自分が何を根拠として生きるのか実はよくわかってないから、個人的な大問題である。

14 例えどんなにカッコ良かったり、高給取りだったり、社会的意義のある仕事をしていたり、他人に感謝されていたとしても、何のために生きているか分からない、つまり究極的な根拠のない人は「生き方が決まっていくか、決まらずに意志のない「死なない」生き方」であって、明日の自分がそうなことは、死ぬことよりもよっぽど恐ろしいことだと思う。

Saturday, November 18, 2017

旅の途中

たまに、夜中にハッと目が覚めた時に、本気で自分が今いるところがわからなくなる時がある。1分くらい寝ぼけた頭で色々考えて、エチオピアにいることに気がつく。

こういう感覚は嫌いではない。